禅 生 活

禅 生 活 · 16日 3月 2019
「七仏通戒偈」ー心ゆたかに生きるー 自らの心を浄めて、 悪い行いを為なすことなく、 善い行いを為するように心掛け、習慣づけて行くと、 自然に心の角が取れて、心がまるくなり、 日々、心ゆたかに生きることができるようになる。 七仏通戒偈は、過去七仏が共通して受持したといわれる釈尊の戒めの偈で、 仏法の大意、 人道の根幹、 仏道の実践が要約されている詩偈です。
禅 生 活 · 16日 2月 2019
莫妄想―――妄想すること莫なかれ ーーーーーーーーーーーーーーーー 気が抜け心がゆるむと 煩悩が起こり 妄想の虜になるーーーーーーー 喝 七十八歳黙雷―――身心の姿勢が崩れると、気が抜けて心が緩み怠惰に流れます。 そこで、顎をひき腰骨立てて姿勢を正して全身心に気を充満させ、自分で自分に『喝』を入れ、今日一日を充実して生きるように心掛けております。『喝』は、声を励まして他を叱咤するときの叫び声ですが、古来禅門では次のような場合に声を発します。

禅 生 活 · 19日 1月 2019
随處作主立處皆真ーーー随処に主と作れば、立つ処皆真なりーーー上記の句は、 臨済禅の祖である臨済義玄禅師が修行者にいわれた言葉であって、 師の言行録である『臨済録』(示衆四)にある有名な句であります。 その句の意味を禅語辞典にみると――― 「如何なる環境にあっても主体性を失わなければ、 到る処皆真実の世界になる」(柴山全慶禅師『禅林句集』)
禅 生 活 · 06日 10月 2018
<知 足 は 第一の富なり> 事足れば、足るにまかせて 事足らず 足らで事足る 身こそ安けれ (慈眼大師天海) 日本三大渓谷・伊勢大杉谷の山居に籠って3年有半。 やっと自然(じねん)を正師として、「焚くほどは 風がもて来る 落葉かな」の境地を味わい、 知足生活に心の安らぎをおぼえ、 日々、心ゆたかに暮らすことができるようになりました。 <愚 歌> ・禅寺のあるべきすがたに 徹すれば 身まずしくとも 心ゆたかなり ・壁はおち 土台はくさり 雨はもる ぼろ寺なれど 心やすけれ 宗教的自修生活に入るべく努力をし、良寛和尚を人間的に追求した 文学者・歌人 相馬御風先生は、大正7年(1918年)『大愚良寛』を出版。 御風先生は、この書の「緒論」の中で「私の良寛研究は決して歌人としてか、詩人としてとか、書家としてとか、乃至は仏家としてとかと云ふ方面での良寛研究ではなくして、  むしろ広い意味での一個の人間としての良寛その人の生活、思想、乃至は芸術とに対する私の接触についての反省考察に過ぎないのである。

禅 生 活 · 07日 7月 2018
<任運無作>任せ切った心境に立って一切を素直に正受し今日只今に生きる -----------------苦行に入り 苦行を捨てるーーーーーーーーー愚の愚なる われはこれしかできぬなり 黙々と歩き 黙々と坐るーーーー 「さとり」の境地を体得したいとの思いから、 虚仮の一心で、50年、55年と行脚、下座行(路上坐禅)を行じ、かなり体を酷使しました。 とくに真冬、路上に黙然大坐する下座行は 骨身に応え、まさに苦行でした。 だが、行じても 行じても、「さとり」の境地は程遠く、 しかも「煩悩の火」は消えず、 結局、体を壊して自得したことは 「四苦八苦は苦行では解決できない」ということでした。 苦行で体を壊して得たものは大きかったが、 日常生活のはたらきに支障をきたしては、何のための仏道修行かわからない。 そして、痛い思いをして、やっと自力我執の自縄自縛から解放されて 苦行を捨てることができました。
禅 生 活 · 02日 6月 2018
禅僧と言うと、 ただ坐禅をしているように思われていますが、 禅生活では、 一作さ務む、二坐禅、三経文といって 作務といわれる労働が重要視されています。 作務というのは、肉体労働と知的労働の両方を意味しますが、 現在は主に肉体労働をいうようになりました。 禅生活では、掃除、炊事、洗濯はもちろんのこと、 自活のために田畑を耕して農作物を得る ―――私の場合は、山作務といって、山づくりの仕事があります。 働くことは 坐禅する以上に修行にとって不可欠なことです。

禅 生 活 · 28日 12月 2017
「己に迷うて物を遂う」は、 『碧巌録』(第46則・本則)に、 「衆生顛倒して、己に迷うて物を遂う」とある下の句です。 「己に迷う」は、 真実の自己(仏性)を見失う。 「物を遂う」は、 外境の事々物々に執とらわれること。 「己に迷うて物を遂う」 (真実の自己を見失って、他物を追い廻す)を「物を遂うて己に迷う」 (他物を追い廻して、真実の自己を見失う)と、 逆に読んでみると、 その意味がわかりやすいと思います。
禅 生 活 · 09日 9月 2016
私が幼児の頃、 祖母に連れられてよく寺にお説教をききに行き、 「南無阿弥陀仏」の意味もわからず、 ただ小さな手を合せて称えました。 正直いって  お坊様から、紙袋に入った駄菓子をいただくのが楽しみでした。 「南無阿弥陀仏」は 古代インドで使われた言語です。 そのインドの古い言葉が仏教と一緒に伝わり、 日本語の中に入ってきて、 今では日本の言葉に溶け込んで、 誰一人知らぬ者はありません。 むしろそれが 「無量寿・無量光の覚者に帰依し奉る」 という意味のほうをしらない人が多いかと思います。

禅 生 活 · 03日 9月 2016
仏法とは何か――― 冒頭から大上段にふりかざしましたが、 仏法は、 自己の存在の根源を自覚することにある―――― 138億年の大宇宙の真っ只中で、 地球に抱かれて 「今」、「ここ」に生かされて生きて存在する 自分の生命の尊さ、有難さを自覚し、 今日一日を心豊かに充実して生きるための 人間教育学であります。