仏法と一神教とのちがい

<ふるさとの鎮守の神様 と 私> 現代人の不幸は、目に見えぬ、 いのちのふるさと を みうしなったことにある。⋯――いつ、どこで、どうして見失ったのかを 私の体験を通して考えてみたい―― 「尾津」は、 承平年間(931~938)に成立した辞書『倭名類聚鈔』に、 伊勢国桑名郡尾津郷、『神名帳』に、同郡尾津神社とある―――現在の三重県桑名市多度町戸津の地です。 今でこそ海から、かなり遠ざかっていますが、 往古は、このあたりが海辺で、木曽三川の川尻であったようです。 この尾津崎が私の生まれ故郷で、尾津神社の境内は子供の遊び場でした。 また、盂蘭盆のときは、村の古老に手伝ってもらって灯篭をつくり、 神社の参道の両側に立て、鎮守の神様に供物をおそなえして先祖供養をしました。
<「あなたの宗教は何か」と問われたら、何と答えますか>日本人は西洋人に 「あなたの宗教は何か」と問われても、咄嗟とっさに返答できない日本人がほとんどだと思います。 日本には、神道もあり、仏教もあり、その他、様々さまざまな宗教が存在していますが、 さて自分は、どの宗教宗派に属しているか、田舎の実家は00宗00寺の檀家らしいが、 そのことが自分の生き方や生活にそれほど影響を及ぼしているとも思えない――などなど、 いろいろ迷った挙句に 「自分は無宗教だ」、 「自分は無神論者だ」と簡単に答えてしまう人が見受けられます。

「かんながらのみち」の『根(こん)』は、日本人の心理的最古層、 即ち、自然の霊妙不可思議なはたらきに畏敬の念を抱き手を合わす素朴な心にある と体で感じています。 古代(縄文時代)、日本列島は豊かな自然に恵まれた森の国であった。 然し、古代人と自然との力関係では、まだ人力は微力で、自然の圧倒的支配力を受けていたから、 人間は大自然の微妙なはたらきに注意を払って身の安全を確保し生きてきた。 人間の自衛本能に根ざす心理的反応といえます。 そして、巨石、巨木、天変地異等の霊妙不可思議(人智を以て思議できない。 言葉でいいあらわすことも、心で思い計ることもできない)はたらきに超人的な宿りを直感した。 彼らはそこに『カミ』(神)を感得した。
<貞明皇后をとりまくキリスト教徒 と ゆがめられた神道観>貞明皇后は、123代大正天皇の后節子(さだこ)(1884年=明治16年4月25日~1951年=昭和26年5月17日)。 諡号(おくりな)貞明皇后。 五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条、五家の総称)の九条道孝の四女で、昭和天皇の生母。貞明皇后節子とキリスト教との関係については、私見を雑えぬため、『皇后の近代』(片野真佐子著 講談社)の 「第六章 神ながらの道に邁進する節子皇后」を要約してお伝えします。

<執筆の動機>何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる (伊勢皇大神宮の森をまえにして西行法師が詠んだ和歌) 私は天皇家の祖神をまつる伊勢皇大神宮を尊崇し、日本民族の精神的支柱、日本という国の歴史的存在、その継続性の象徴である天皇家を敬愛して78年。 然し、『第一章 天皇は伊勢皇大神宮の大神主か、それともキリスト教徒か?』でも述べたように、ここ十数年の天皇家のご様子を拝見していて、これで宮中祭祀、伊勢皇大神宮祭祀がややもすると軽んじられ、天皇家存在の根幹が揺らぐのではないかと危惧して筆を執りました。
【仏法と一神教とのちがい】 <追録  宗教の語の意味>第四章『かんながらのみち(森の宗教)とキリスト教(砂漠の宗教)のちがい』 第五章『仏法(人間の宗教)と一神教(神の宗教)のちがい』に、筆をすすめる前に「宗教の語の意味」について、お話しをしたいと思います。「日本人は無宗教」だという言葉をよく聞きます。 そこで、宗教の語源を調べてみると、「宗教」という語は、仏教学者の中村元博士によると、 仏教用語で「宗の教え」、 つまり言語で表示されない究極の原理や真理を意味する「宗」と、 それを人に伝えるための「教え」を意味する―――とあります。

仏法と一神教とのちがい · 01日 12月 2018
日本が、アメリカに完全屈伏した敗戦後の昭和25年、 和辻哲郎氏の著述『鎖国―日本の悲劇』の「秀吉の宣教師追放令」の段は、 「秀吉は尾張の農民の子から日本の絶対権力者にまでのし上がって来た男である」 の書き出しではじまり、 「農村の一少年から関白にのし上がってくる------」、 「農夫の子の秀吉が関白になったとたん-----」という表現がでてきます。 然し、「農夫の子が千辛万苦せんしんばんくを克服して関白になった」とみると 人間秀吉は人生の師として多くのことを教えてくれる―――同時に秀吉がいかに大器量人、 大政治家であったかよくわかります。 歴史上の人物や出来事をどうみるかは、見る人の心の置き所によって人それぞれですが、 和辻氏の秀吉観では、秀吉を正当に評価できないのではないかと思います。 ・それはさておき「宣教師退去の厳命」の本題に入ります。 ・秀吉は、コエリヨ(イエズス会日本支部準管区長)に対し、 キリシタン宣教師(伴天連)は20日以内に日本を退去せよとする 「五ヶ条の定」を通告した。
仏法と一神教とのちがい · 03日 11月 2018
当時、九州では、新興勢力の薩摩島津氏が、薩摩・大隅・日向を切り平げた後、鉾を転じて肥後・肥前を切り従え九州の大半を席捲して最も強勢であった。 一方、イエズス会は、長崎を実質上領土とし、この地方における領主であった。 そして大友・大村・有馬らの九州の諸大名を物心両面で支配下においていた。 日本統一を眼目とする秀吉としては、この形成を看過するわけにはいかなかった。 しかし、この状勢下において、秀吉がイエズス会に圧迫を加えたならば、 模模範的聖徒の大友宗麟(フランシスコ)、大村純忠(バルトロ)のみならず、すべてのキリシタン大名らは、いずれに与していたのであろうか。 1587年度、イエズス会日本年報に 「島津征伐に動員された秀吉軍には、海陸ともに十字架の旗が多数立てられていた」 とあることからみてもわかるように、もし、この時点で秀吉がイエズス会処分に手を下したならば、 キリシタン大・小名は秀吉に反旗を翻ひるがえしたであろう。 何故ならば、宣教師らは、キリシタン大・小名の精神的教導者、支配者として、天国の鍵とともに貿易の鍵を握っていたからである。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。 登録決定を目指し奔走ほんそうされた方々の努力が認められ、その喜びは一入ひとしおだと思います。 これを機に長崎県の観光振興にはずみがつき、また、離島の「島おこし」の起爆剤になればと願っております。 それはそれとして、 産経新聞(平成30年5月11日)に、『世界遺産もいいけれど』と題して、 産経文化部の桑原聡氏の一文が掲載された。 <省かれた禁教前史>「----(略)----登録勧告を受けて、長崎県制作の2本のアニメが、動画投稿サイト『ユーチューブ』で公開された。  3分版と1分版という簡潔な作品だ。禁教下で離島に移り住み、仏教徒を装い祈りをささげたキリシタンの歴史を紹介するものだ。 正直いうと大きな不満が残った。 それは、わが国でキリスト教が禁止された理由についてまったく触れられていないからだ。 おそらくその原因は、登録勧告に至るまでの経緯にあったと考えられる。政府はまず平成28年夏の登録を目指し、キリスト教伝来から約400年の経過を示す遺産として27年1月、ユネスコに推薦した。
アマースト国際学会 (アメリカ・マサチューセッツ州アマーストで開かれた、  対日占領に関わる国際学会)で 明らかにされた 日本占領秘史――― 『天皇がバイブルを読んだ日』 (レイ・ムーア編.昭和57年7月15日発刊、講談社)の編者:レイ・ムーア教授は、序文で―――米国で開かれた対日占領に関する学会で、ひとりの日本人学者がつぎのように反省した。 「占領期における 経済改革を論じる際、制度、経過、法規が取り上げられてきたが、改革が日本人に与えた影響について検討されていない」 この彼の意見は、占領期に関する研究の日米共通の欠陥を示すものであった。 占領は、日本史における重要な一時期であるにもかかわらず、 占領の物語は通常アメリカ側の視点から述べられている。 この期に関する論文を発表している学者は、主にアメリカの記録文書を用い、 アメリカの対日政策の形成、 日本でのアメリカ人の経験、そして、政治、経済、教育、通商についてのアメリカ人の考え方を強調している。

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