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南無阿弥陀仏



南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)


 

 

私が幼児の頃、祖母に連れられてよく寺にお説教をききに行き、

 

「南無阿弥陀仏」の意味もわからず、 ただ小さな手を合せて称えました。 

 

正直いって お坊様から、紙袋に入った駄菓子をいただくのが楽しみでした。

 

 

 

釈尊が法話をされた壇に向かい坐禅(祇園精舎・インド)


 

  「南無阿弥陀仏」は 古代インドで使われた言語です。

 

そのインドの古い言葉が仏教と一緒に伝わり、 

日本語の中に入ってきて、 

今では日本の言葉に溶け込んで、 誰一人知らぬ者はありません。

 

むしろそれが

「無量寿・無量光の覚者に帰依し奉る」

 

という意味のほうを しらない人が多いかと思います。

 

 


 

 

「南無」は
帰命(心からまことをささげる)。

 

「阿弥陀」は、
無量寿(無限の時間)、無量光(無限の空間)。

「佛」は
覚者即ち、覚れる者の意です。
 

 


無限の時間・無限の空間


 

 

「独坐大雄峰」で述べたように、

 

 

仏法は、

 

「今」、「ここ」に生きて存在する 自己の生命の尊さ、有難さに目覚める

 

人間教育学です。

 

 

今日只今、一個の私の生命には、両親の細胞が生きています。

 

両親の細胞が生きているということは、 4人の祖父母の細胞が、

 

8人、16人と数えていくと、

 

15代前の親の数は、

 

65,536人にもなります。 

 

その中の1人の親が 子供の時に死んでいたら、

 

この私は、今、ここにこうして存在していないのです。 

 

この様に考えていくと、

 

人類が地球上に出現したときからの細胞が、今、この私の身体になっているのです。

 

否、

 

人類が生じた時といいましたが、

 

何もないところから出来るはずはないから 

 

生じる以前からの

 

大宇宙の生命のはたらきが 私を存在させているのです。

 

 

これを「無量寿」(むりょうじゅ)といいますが、

 

寿は時間で、私が生じているのです。

 

これを紙の上に縦の線で書いてみます。

 

 

また、私たちは、 

現在、世界各国から食料を輸入して 自分の生命として生きています。

 

それだけだはなく

空気を、水を、太陽を、月を というように

限り無き空間を生命として生きています。

 

これを「無量光」といいます。

 

 

「光」は空間のことです。 

 

これを紙の上に横の線で書いてみます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 縦と横と交わった

一点が出来ます。

 

 

この交わった一点

 

「今」、「ここ」

 です。

 

 

 

 

 

  

 

今、ここ、この一点が 

 

私の生命ですが、

 

この一点は 

 

無量寿、即ち、無限の時間であり、 

 

無量光、即ち、無限の空間です。

 

これを阿弥陀といいます

 

 


目に見えない いのちのふるさと


  

この世は

限り無き時間と、限り無き空間によって、生かし生かされているのです。

 

そして私たちが、この目に見えない大宇宙の生命のはたらきの中に生かされて生きる

 

この身の有難さを知る人間になること、 

 

それが南無阿弥陀仏の六文字なのです。

 

 


「今 此処に居る」
新潟県中央区 福地教夫(75歳)

 

 

今、 

宇宙創世から 

137億年の時間の最先端 

此処に 

地球の日本の一角に 

居る 

私となって

 

どれほどの時の流れと 

どれほどの宇宙空間が 

必要だったのだろう 

私に辿り着くまで  

 

(産経新聞・平成27930日『朝の詩』)


おかげさまで ありがとうございます。


  

138億年の宇宙生命の 

無限の時間の中に、 

無限の空間の中に、

 

今日只今 かぎられた この一点自分がおかれてあるということ、 

 

これが感激でなくて何であろう、 

 

驚異でなくて何であろう、不可思議でなくて何であろう。

 

ともかく、無限の時間・無限の空間の中の

 

今、ここという この一点に 

こうやって生かされているという

 

驚 異、 

感 激、 

これを確りと自覚し、

 

今日只今、 

一刻一刻を

 

「おかげさまで ありがとうございます」 

 

と、心豊かに生きる 

 

―――― それが

 

 南無阿弥陀仏の生活でございます。

 

 

 


<愚 歌>

 

ぼんのうの 泥にまみれし われなれど

 

弥陀にひろわれ 浄土に遊ぶ


平成28年9月9日 

 

       自然宗佛國寺     開山 愚谷軒 黙雷
             


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から、長期連載でお伝えいたします。


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