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大死大活(21日間断食行 その1)


大死大活(21日間断食行 その1)

――――水間寺21日間断食行――― 



断食 と 断食行 の ちがい


 

昨今、

 

断食療法、断食健康法が 

話題になっていますが、

 

これらの断食は 

仏法でいうところの 

断食行とはちがいます。

 

仏法者(仏道修行にいそしむ者)の 

断食行の根本には、 

 

「求道心」(仏道を求める心)があります。 

 

 

 

仏法修行では、 

 

初発心(しょほっしん)(初めて悟りを求める心を起こすこと)。

 

 

即ち 

仏道を得ようとする求道心、

 

悟りを開こうとする 

願心の大切さが強調されます。 

 

 

何事をするにも 

初発心がしっかり確立されておれば、

 

求道の旅が 

いかに遠く険しくとも、 

前途いかなることに遭遇しようとも、

 

求道心を振るい起こし

 

苦難の道を 

切り開いて行くことができます。 

 

 

ここが、 

 

断食療法、断食健康法との 

 

違いであります。

 

 

 


「大死大活」     作: 黙 雷



今東光和尚 ― 骨は俺がひろてやる


 昭和43年4月(27歳)。

 

禅道場建立 を発願(北伊勢鈴峰・釈迦ヶ岳山麓)。

 

ところが 奈良の大寺の末寺住職が他をかたらって妨害。 

 

田舎では寺々の力が大きく 

 

地元の人々も協力に二の足を踏み 建設計画が壁にぶつかりました。

 

 

この難関を どう突破するか。 

 

よし、 

 

大死一番、 

 

一度死のうと腹を決める――――。

 

 

そこで、

 

支援人の今東光和尚に

 

21日間断食行で死ぬことにしましたので、水間寺のお堂を貸して下さい」と

 

お願いしたところ 

 

 

東光和尚は 

 

「骨は俺がひろってやる」

 

といわれ、心良く引き受けて下さいました。 

 

 

そして、泉州・水間寺の裏山にある開山堂に籠り 

 

21日間断食(昭和45年11月10日~30日)を実践しました。

 

 


せい  の  しゅうじゃく

生 の 執着


 

食 欲

 

 

大死一番の 

覚悟で断食行に入りましたが、

 

凡夫僧の情けなさで、 

 

初日の夜 腹がすいて、すいて、

 

あれが食べたい、 

これが食べたい。

 

 

2,3日目は、 

 

何でもよいから 

食べたい の一心で

 

妨害者への怒りだとか、

 

世間体だとか、 

 

面子だとか、

 

というくだらんことは 雲散霧消してしまい、

 

心は食欲に支配され 餓鬼地獄に転落―――。
 

 

4日目の朝、 

黒い塊のうんこがポコンと出ると、

 

餓鬼地獄からぬけでて 心身共にすっきりとし、

 

腹の底から 気力が沸き起こってきました。 

 

 


性 欲

 

 

9日目前後から 体力が衰えてきて、

 

10日目になると 性欲が下腹部から沸き起こり、

 

10、11、12、13日目は 性欲との苦しい戦いとなる。

 

 

 14日目になると、性欲の苦しみは透過し、 

 

頭の中の黒雲が消えて無くなり、

 

 

心は、

 

山の生気、 

谷の声、 

草木の気吹に吸い込まれ、

 

何ともいえぬ 清浄な境に没入して行きました。 

 

 

この頃から 上半身を支えるのがつらくなり、

 

晒し木綿を一反 腹に巻き 体を安定させる。

 

 

 


死を見詰めて 坐る


 

17日目になると、

 

腹の横側から 両手でギュっと締め付けると、

 

指と指がくっつくので 

 

晒し木綿を一匹(一反の倍)腹に確りと巻いて

 

丹田に 

 

全身の精気を集中させる。 

 

 

 

 

18日目頃から

 

脈搏(みゃくはく)が時々結滞(けったい)し、

 

 

ということを切実に感じ、

 

そこえ 

 

尻の肉が落ちて 坐るのもつらくなる。

 

 

今東光和尚が  

 

「骨は俺がひろってやる」 

 

自分をまるごと抱えてくれたという

 

 

――今、ここで死んでも、

 

東光和尚が 骨をひろってくれる――

 

 

が大安心となり、 

 

 

今、ここに生きてある事は確かだ。

 

 

この確かな

 

一瞬一瞬

 

生を精いっぱい

 

生き切る。

 

 

 

死ぬとなれば、

 

自然に任せ切って、 

 

 

静かに死ぬ―――  

 

との心境を味わう。

 

 


 

 19、20、21日目

 

体は日に日に衰え、考える力もなくなり、

 

ただ死を見詰め、

 

死の中に生き、 

 

黙々と坐る。

 

 

 

 

 

(せい)

 

 昨日もない。

 

明日もない。

 

過去もない。

 

未来もない。

 

 

 

あるのは今、

 

ここに生きて坐っている生。

 

 

生は 今をおいてない。

 

 

一瞬一瞬生かされて生きる、

 

自己の生を味わい坐る。

 

 


いま 生命あるは ありがたし


 

21日間断食行を終えて、

 

水間寺の宿坊で 「おもゆ」をいただく。 

 

一口 二口 と(すす)ると、 

 

一瞬にして 

 

全身が燃えるように 熱くなり 

 

生気が蘇る。

 

 

 

すると、 

 

もっと食べたい 食べたい 

 

という欲求に誘惑されるが、

 

ここは欲望をぐっと抑え込み、

 

ふつか、みっかと 

 

ゆっくり 

おもゆ から、うす粥へ。 

 

よっか目頃から 徐々にお粥の量をふやし、

 

野菜スープをとり体力をつけて行くと、

 

また性欲が下腹部から沸き起こってくる。

 

 

この性欲に打ち勝つ苦しみを透過し、

 

体力が回復してきたので、娑婆世界にかえりました。 

 

娑婆の空気を吸い、 

理論理屈抜きで 

 

「いま生命あるは ありがたし」

 

と思いました。

 

 


 

水間寺断食行で摑んだものは、  

 

 

「今、ここに生きて存在する自己」 

 

 

「今、目の前の今」

  

このほかに大事なものはない。 

 

 

 

過去は過ぎ去ったもので、

 

今ではない。 

 

また 未来もまだ来ない。

 

 

いずれ 未来はやって来るが、

 

やって来る未来は、目の前の今である。

 

 

あるのは、ただ現在だけだ。 

 

今、ここに生きる。

 

 

 

明日あると考えず、  

明日の生を当にせず、 

 

今日一日 精いっぱい生きる。 

 

その一日一日の積み重ねが 

 

人生だ。 

 

 

―――という 

 

ごくあたりまえの 常識でございました。

 

 

 


人の生をうくるはかたく、

 

やがて死すべきものの

 

いま生命あるはありがたし。

 

(釈尊真理の言葉『法句経』)

 

 


人間 の 根本欲


 

 

人間の根本欲は、 

 

食欲・性欲・自由欲 

 

三欲だといわれています。

 

 

 

そのうち 

食欲・性欲の二欲は、 

 

根本的原始的欲望で、

 

根本中の根本 

というべき欲望であります。 

 

この二欲は 

共に本能的なもので、

 

食欲 

生まれてより死ぬまで 持続して 

 

諸欲中もっとも根本的なものです。

 

 

 

また、

 

性欲 

生まれて直ぐに現れないが、

 

その発するに至るや 

 

諸欲中にて最も猛烈にして 

ほとんど盲目的に 

満足を求めて止まざることなしであります。

 

 

そして、 

この二欲は 

生命保存の条件として、

 

独り人間のみにあらず 

 

動物にも共通している 

基礎的欲望だといえます。

 

 

 

ここで人生問題から考察してみると、

 

この二欲のみを 

根本欲として見ることは 

十分とは言えません。 

 

その上に 

第三の根本欲として 

数えねばならぬ一欲、

 

即ち 

 

自由欲があります。

 

 

 

 

自由欲とは、 

 

他の制限を排して 

 

自らの欲するままに活動せん

 

とする欲望をいいます。

 

 

 

自由欲は一見すれば、

 

前の二欲に比して 

 

さほど 

 

本然的(ほんねんてき)必須的(ひっすてき)ではないように思われますが、

 

 

すでに植物生活にその傾向が現れ、

 

動物に到りて 

 

一層著しくなり、

 

 

人間となれば、

 

時に死を賭してまで 

 

この欲のみたされんことを要求し、

 

 

従って

 

この要求の基づく所、

 

種々の形で 

 

人類の生活を支配します。

 

 

 

 

この点から観察すると、

 

これを生物一般に通ずる 

 

根本欲のひとつと見ることができます。

 

 

 

即ち、 

これを逆にいえば、

 

これを予想しなければ、

 

食欲、性欲のみにては 

 

到底理解できない種々の現象が 

 

生物一般に見られます。

 

 

特に紅塵万丈・利害得失の渦まく

 

人間世界に最も著しく現われ、

 

これが 

 

私たちの苦悩の種

 

になっているといえます。

 

 

 


欲望こそ生きる原動力


 

 

昨今の高僧や大学者の

 

「いきんがために努力するとも 

 終極は死の外はない。 

 

 死は人生の大団円(最後の場面)、 

 われらの生活は 

 一歩一歩この大団円に近づくに過ぎない。 

 

 夢の如き生なにかあらん」 

 

と悟りすました説教を聴いても、

 

 

「夢と諦めりゃ何でもないが、 

 そこが凡夫でね あなた」

 

の都々逸でないが、 

自分は深く生に執着する凡夫僧です。

 

 

凡夫僧の凡情と 

笑われるかもしれないが、

 

自分の努力の大部分は、 

否、むしろ全般は、 

 

生きんがため 

 

努力だといえます。 

 

 

 

人生75年の間に、 

 

7日間断食行、 

 

21日間断食行(4回) 

 

を度々経験してきて、

 

 

食欲、性欲、自由欲は、

  

自分の根底に存在する 

 

根本欲だと確証しました。

 

 

 

その結果、 

 

この本能的に生きたい 

 

という欲望。

 

 

  

生の執着が 

 

生きる力となる。

  

 

 

欲望

 

生きる原動力となる。

 

 

 

この欲望こそ、 

 

人間行動の源泉であり、 

 

生命と同じように 

 

尊いものである 

 

と捉えました。

 

 

 

 


人間の欲というものを、

 

世の中の人々が重んずるようでいながら、

 

その実 

 

これを軽視し、

 

侮蔑していることに対して、

 

私は強い疑念を抱いています。 

 

 

ただ 

 

欲望をそのまま放置せず、

 

人間の知恵で、 

 

その欲望に方向を与えなくてはならない。

 

 

 

その知恵を与えてくれるもの、

 

それが 

 

私の場合

 

 

『仏法』(釈尊の人間教育学

 

 

であります。 

 

 

 

 

仏法は、

 

欲を抑え殺すのではなく 

 

『法』(釈尊の智慧)の光 

 

欲を活かし、

 

 

欲を

 

志(利他行)の欲に 変革し

 

 

自己を 

 

最も人間らしく生き抜こうとする 

 

人間に変えることにあります。 

 

 

 

仏法は、 

 

人間の欲望を 

 

正当に理解し、

 

正当に位置づけて、 

 

欲望を 

 

人間の支配下におき、 

 

 

 

最も 

 

生命力ある人間として、 

 

この世に生きさせようとする 

 

 

――――生きた世界の 

 

生きた人間相手の、 

 

生きた人間教育学―――

 

であります 。

 

 

平成28年10月1日

 

         宗教法人 自然宗佛國寺    開山  愚谷軒 黙雷   

 

          (次号は 「21日間断食行」その2)


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から

「仏法は苦悩を超ゆる妙薬」を、長期連載でお伝えいたします。