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大死大活(21日間断食行 その2)


大 死 大 活


(21日間断食行 その2)    

―――西尊院堂21日間断食行―――



寺の心を失ったのか!


 

平成3年、京都仏教会が 京都ホテル高層化に反対し、

 

清水寺、金閣寺、銀閣寺等 観光寺院の 拝観拒否戦術を武器に 強硬な反対運動を展開。

 

 

・私は、 平成3年12月8日、 

京都・四条河原町(阪急百貨店前)の 路上に黙然大坐し、

 

京都仏教会に対して 公開問答を申し入れる―――

 

 

「寺が門を閉めるとは何事か。 寺の心を失ったか!」

 

 

・京都仏教会1000ヶ寺に対して、名も無き一乞食(こつじき)(そう)

 

 

誰が見ても  勝負になりません。

 

 

 

京都・四条河原町での下座行 (平成20年2月)

この文章にある平成3年12月のことは、新聞各紙が取り上げました。


ところが、

 

厳冬の四条河原町路上に 

毎日6時間坐っていると、

 

京都新聞、朝日新聞、 

夕刊フジやローカル新聞、 

各テレビ局が報道。 

 

市民の関心が高まり、

 

年を越えた 

平成4年2月、3月には 

大きなうねりが巻き起こり、 

 

一人の力が

 

万人の力となる。

 

 

その結果 

拝観拒否騒動は 

一件落着。

 

 

 


 

 

だが、 

この騒動が解決したにもかかわらず、 

何か心にしこりが残り

 

すっきりしない―――― 

 

どうしたことか。

 

 


我 執 (自己中心の思想)


 

 

拝観拒否騒動の後始末をつけて、

 

平成4年5月――― 

今東光和尚の後に 

泉州・水間寺の貫主に座られた 

武覚円和尚(天台宗大僧正)のご助力で 

比叡山・西尊院堂に籠り、

 

21日間断食行に入る。

 

 心のしこりの原因を探る 

=黙然大坐し自分の心の奥を見ると、 

 


わが心 もしも鏡に うつりなば

  

さぞや姿の みにくかるらん


 

 

私は理よりも 

情で動く性格で 

これが長所でもあり、

 

短所でもあり、 

時には命取りにもなります。

 

この情の発する所を 

掘り下げて行くと、

 

心の奥底に 

 

自己中心の我執

 

の一念が  

黒々と<とぐろ>を巻いていました。 

 

京都の騒動に対する私の行動は、 

観光業をなりわいとする人々の 

窮状を救わんとの 

情から発したものですが、

 

やはり 

相手を叩けば叩くほど、 

自分の心は鬼となり、 

 

地獄の亡者となっていきます。

 

 

心のしこりの原因は、  

我 執 

 

即ち、 

自己中心の思想のなせるところなり 

と自覚する―――。

 

 

 


愚 歌

              

浅ましや 人の()()し 口にする

 

悲しきものは わが心かな

  

 

わが心 仏もでれば 鬼もでる 

 

地獄極楽 行きつ戻りつ

 

 


我執とは何か


 

 

=八万四千の煩悩

(心を煩わし、身を悩ます心のはたらき)は、 

 

我執を本となす 

 

といいますが、

 

その我執とは、 

自分の生命を保持する

 

(われ)なるものに 

執着する妄想。 

 

これに執着するが故に、 

命惜しさの 

臆病未練 

 

(われ)を拡張せんがための 

財産欲、 

名誉欲 

 

慳貪(けんどん)(けちで欲深い)の念、

 

この萌芽、 

瞋恚(しんに)(いかり憎む)の情、 

 この動き。 

 

 さらに 

 種族保存の生殖欲(即ち性欲)、 

 これに加はって恋愛となり、

 

 嫉妬となり、 

 愛憎好悪の妄執

 (迷いの心によって物事に執着すること)。

 

 

 愚痴

 (愚かで思い迷い、ものの理非のわからないこと) 

 の迷雲。

 

 

 あるいは 

 名利(名誉と利益)の欲、

 

 はなはだしきは 

 名利の為に 

 一命をもその犠牲となす、

 

恐るべき我執の一念。

 

  

常に深く根底に 

これを有し 

 

<苦しみの生起の原因>  

 

となると自覚する。

 

 


死 を 出発点として生きる


 

 

厳冬の京都・四条河原町 

百日間下座行(路上坐禅)で、 

かなり無理をしたところへ 

 

比叡山・西尊院堂で「21日間断食行」は、 

 

51歳という年齢もあって

体調を崩し、

 

1㎝程の段差で(つまず) 

危険な状態に陥る 

 

――――死と対座 

 


生きとし生けるものは 

 

   みなすべて死なねばならぬ (釈尊)


 

この厳然なる事実。

 

それを凝視し、 

死を出発点として 

坐る。

 

死は 

誰のうえにも来る。 

 

絶対に逃れることのできない死ならば、 

死が襲って来る 

恐怖におののいて生きるより 

 

死のなかに生きよう。 

 

一日一日、

 

一瞬一瞬を

 

あるがままに、 

心から受け入れ、

 

生の執着を捨て、

  

一切のはからいを捨てて

 

死の真っ只中に飛び込んで、 

生の喜びを味わい、 

心豊かに充実して生きる。 

 

充実して死ぬ――― 

 

と覚悟が決まった瞬間、

 

生死の壺が 

パンと砕け散りました。 

 

すると、 

よし 死の瞬間まで 

努力精進して 

 

生き抜かん

 

と気力が沸き起こってくる。 

 

そこで 

竹の杖をついて

 

一歩 一歩

 

大地の感覚を確かめながら 

山内をゆったりと散歩し、

 

大岩に抱かれて 

岩の精気をいただき、

 

立木に抱かれて 

木の生気をもらい、

 

若芽や花の気吹 

肺いっぱい吸引し、

 

自然にとけこみ、

 

一切を自然に任せ切って生きる――――。

 

 


今日一日の生命大事に


 

死の中に生きる。 

 

死におののかないとは、 

 

生死を非常に軽く超越する

ということではない。 

 

生死の問題は 

名僧、高僧であろうと、

 

また 

私のような凡夫僧であろうと、

 

とにかく人間である以上、

 

生の執着というものは 

本能的なもので、 

大死一番

(一度死に切る=一切の迷情妄執、思慮分別のいとなみを完全に断ち切る) 

 

の修行に徹底すればするほど

 

自己の生命(いのち)に対する 尊重というものが 生まれてきます。 

 

そういう意味では 生死に徹底した人であれば、

 

その人が この世で為すべき事、 

果たしておきたい事。

 

僧侶ならば 

人をのみ 渡し渡して おのが身は

 

岸に上がらぬ  渡し守かな 

 

という

 

 ()未得度先度(みとくどせんど)() 

(自ら救われずとも、他を先ず救わん)の 

 

大慈大悲の菩薩道(僧侶道)を 実践するという 重要な使命があります。 

 

僧侶道の重要な使命を 深く感ずれば 感ずるほど 

今日一日の生命というものに 尊重と愛着を持つようになります。

 

大死一番

 

―――生死に徹すればするほど、

 

自己の生命というものを 軽々しくあつかうことが  できなくなります。

 

 


愚歌

 

 わが命 いつ終るか わからねど

 

 今日一日の いのち大事に

 

 

 今ここを 命いっぱい 生きぬかん

 

限りある身の 力つくして


大 死 大 活


 

禅ではよく

 

「大死一番」、「大死大活大活現前」、 

「大死一番絶後再蘇(絶後に再び蘇る)」

 

といいます。 

 

どういう意味かと、 

禅寺の住職が書き著された 

禅書をひらくと

 

「大死」(死に切る)は、 

 肉体的な死ではない。

 

大死とは、 

人間の二元的・相対的な認識から離れて 

無我の境地に立つことをいう。

 

人が徹底してこの境地を究めると、 

妄想や迷いを()て切った「(かつ)」が蘇ってくる。

 

「活」とは、新しい生のことで 

「大活」ともいう。  

とある。

 

これを読んで、 

頭では成る程と思うが、 

体が成る程と納得しない。

 

正直ピンとこない。 

 

・そこで、 

無学無才、単細胞の凡夫僧がとった行動は、

 

この場合はこう、 

あの場合はこうと、 

いたずらに問題を複雑化するよりも、 

単純にしてしまえ、

 

単純、単純、単純に! 

 

そして、 

凡夫禅は、 

先ず、

 

死を覚悟して、

 

断食行で 

自分を極限の状態に追い込んで 

「死と対坐」すると、 

 

本能的な生の執着は強いが、 

名誉、地位、財産、自我などの 

自分にとって勲章のようなものが 

すべてふっとんでしまった。

 

 


そうすると、 

やっと手にいれた 

今の地位をなくしたくない。

 

辛苦して築いた 

財産を守り続けたい。

 

自分だけは 

他の人といろいろな事柄において 

特別でありたい――――

 

このような見栄 

木っ端微塵に砕け散ってしまいました。

 

 

 

人の最後の安らぎは、 

一切の執着を捨て切る

ことから得られる。 

 

何かに執着している間は、 

その執着しているものに 

左右されて煩わされ、

悩まされるが、

 

執着の種も、 

断食行15日目頃から 

だんだんと消滅し、

 

18日目頃になると、 

生死を超えて、

 

今、ここを 

充実して生きる 

の心境になりました。

 

 


大死一番 絶後再蘇


 

大死一番―――死に切っただけでは、

いわゆる生ける屍にすぎない。

 

大事なのは 

大死一番したあと、

 

即ち、 

死に切った所から 

再び蘇り

 

思いのままに働く  

 

ということが肝要であります。

 


生きながら 死人となりて なりはてて

 

思ひのままに するわざぞよき

 

     (至道無難禅師) 

 


 

私は、21日間断食行を重ねる度に、

 

死と対坐して、

 

大死大活の境地 

深めることができました。

 

 

そして、 

死と対坐して

 

私が摑んだものは、 

無我の境地とは 

程遠いものですが、 

 

  重大な岐路に立ったときや 

窮地に陥ったときは、

 

あれこれ思い悩んで 

ジタバタすればするほど 

深みに落ちるから、

 

ここは大死一番 

自分の目的、

所信に立ち戻って

 

前に進むしか 

活路を開く道はない。 

 

この大死一番は、 

人間誰しも通らねばならない

  

人生の関門である。

   

 

この関門を 

自覚して通るか通らぬか、

 

それによって、 

その後の人生の勝負が決まる。

 

 

 

   人生は真剣勝負だ。

  

ただ静かに坐っているだけでは、 

禅の核心に 

迫ることはできない。

 

人生を渡るのに、 

ただ柔和で、 

ニコニコしているだけでは 

本物ではない。 

 

自己のはからいを捨てて、 

 

敵陣の真っ只中に 

突き進む勇猛心(真の勇気)がなくては、 

人生の真剣勝負には勝てぬ。

 

人生は抜け殻であっては 

何もつかめない。

 

自分に負ける人が、 

どうして敵に勝てるか。

 

自分に克ってこそ 

人間として自立できるのだ。

 

自己の対決で、 

自分を殺すくらいの 

迫力をもって人生に臨めば、 

自己の実現は必ず果せる。

 

 

―――これが凡夫僧が 

凡夫禅で摑んだ生き方であります。 

 

斯く言う私は 

元来 意志薄弱で 

怠惰なところがありましたが、

 

死と対坐して、 

自分の弱さ、(もろ)さ、愚かさ、 

 

自分の短所、欠点を自覚する 

 

勇猛心(真の勇気)が 

全身にみなぎってきました。

 

 

 


最後まで希望を捨てず


 

人生で失敗しても 

悲観失望せず

 

 

最後の最後まで 

希望を捨ててはならぬ。 

 

瀕死の重病においてさえ、 

最後の一線に踏み止まって 

回復した例はいくらでもある。 

 

 事業を大失敗しても、 

 大死一番に徹底すれば、 

 必ず挽回できる。

 

 

 失望自棄 

 人生において禁物である。

 

―――――――――――――――――――――――――――

平成28年10月8日

 

         宗教法人 自然宗佛國寺    開山  愚谷軒 黙雷   

 


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年から

「仏法は苦悩を超ゆる妙薬」を、長期連載でお伝えいたします。