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霊 魂(前編)



霊魂 の 有無


下座行(路上坐禅)50年

―――娑婆世界 是れ 禅道場――


 

下座行中、もっとも多い相談事は、 

 

先祖霊・守護霊・背後霊・水子霊など 霊魂に関する不安である。 

 

 

世間の人は、どうかすると 霊魂というものは、 

 

有るものだ、いや 無いものだと有無について論議するが、  

 

これは論議するだけ 野暮(やぼ)なことである。 

 

 

 

有るといっても 自らの心を離れてあるものではない。 

 

 


心こそ 心迷わす 心なり

 

心に心 心ゆるすな


路上での相談(21日間下座行 名古屋・栄)


 

 仏典に

 

「心の外に法無し、一切(ただ)心の造れるところなり」  

 

「心生ずれば 種々の法生じ、心滅すれば 種々の法滅す」とあるが、 

 

 

 自己の心の上に霊魂を生みだす性質のある人には 霊魂はある。

 

 

 

  だが 心頭を滅却すれば 霊魂はない。 

 

 

故に、 霊魂は 主観的には有るが、 客観的には無い  と一言の下に 断言することができる。

 

 


輪 廻 (りんね)


 

「魔界転生」「悪霊転生」などとオドオドしいオカルトの本の話題や

 

NHK大河ドラマの 主人公 真田幸村や 豊臣秀吉、石田三成とかいった偉人の霊を 

 

自分の所に呼び寄せる術を心得ているという、いかがわしい宗教家、霊能者の話を伝え聞くことがある。 

 

 

 

過去の亡霊、悪霊が 生身の人間に生まれ変わって 跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。 

 

また、死者あるいは過去の存在が、再びこの世に生をもって再生する という思想は、 

 

釈尊以降の変容された仏教(仏法)における輪廻観 依拠(いきょ)していると思われる。 

 

 

 

そして、不可能なるもの、 神秘的なるものに対し、

  

無条件に しかもある種の畏怖(いふ)の念を抱いて受容する日本人の精神的構造に適合し根付いた。 

 

 

さらに、先祖霊・守護霊・背後霊・水子霊なるものを  

 

措定(そてい=ある命題を肯定的に主張)し、

 

 

現実の不幸や病苦の原因とみなす 風潮とも符合し、宗教的演出による 神頼みの一因となっている。 

 

  

ここで誤解の無いように、先ず、 大まかな道筋を押さえておきたいと思う。

 

 再生・転生思想の原点とされる輪廻・業(カルマ)思想は、  

 

古代インドのバラモン(ヒンドゥー)教 成立したもので、

 

 

釈尊をはじめ 仏法者の思想背景には、ヒンドゥー文化の風土 あったという点である。

 

 

釈尊にとっても、業や輪廻 大きな問題であった。

 

 


輪廻転生 は 仏法の教えか?


  

出家の動機―――  

 

釈尊は、人間という存在が持つ 根源的な苦しみ 

 

 

「生・老・病・死」という苦しみから、  

 

人はどうすれば 解脱できるかを追究するために出家された。 

 

 解脱 げだつ=悟りを開き、煩悩と業の束縛から解放されること)

 

 

 

菩提(悟り・覚)――― 

 

釈尊は、6年間の苦行生活を続け、

 

35歳の12月8日、東天に輝く暁の明星を一見した瞬間、

 

悟りを開かれて 仏陀(悟った人、覚者)となられて 生死を解脱された。

 

 


輪廻 の 解脱


 

 

釈尊は、 

 

わが心の解脱は 不動である。 

 

 これが最後の生存である。 もはや 再生はあり得ない。」

 

 

「私は輪廻を解脱した。 

 

  後有 (ごう=未来世における生存。死後の生涯。)を受けない。」


 (もう何も何処にも生まれ変わらない)  と宣言されました。 

 

 

輪廻転生の否定である。

 

 

 

故に、輪廻説あくまで仏法の前提としての バラモン(ヒンドゥー)教説であって、

 

厳密な意味では 仏法説ではない。

 

 

このことは 仏法釈尊の人間教育学)を学ぶ者は、

 

何としても 一度はっきり押さえておいていただきたいところである。 

 

 

 

釈尊は、出自によって 人間の価値と前世の業(カルマ)を決定づける カースト

(インド特有の世襲的身分・階級制度)

 

に対して終始批判的であった。 

 

 

 

釈尊は、

 

人間を 宿命的な身分出自ではなくその人の行為そのもの その人を規定すると考えられた。

 

 

 

 

 

 

本来の仏法は、釈尊以後 ヒンドゥー教文化と融合し、

 

さらに長い時間をかけて、 わが国への到達するまでの 伝播の道筋で 

 

 土着の思想と習合し、 釈尊本来の思想から 大きく変容した。

 

 

 

 

この結果、「輪廻転生」「霊魂の存在」など  釈尊忌避(きひ)した 輪廻・業観が受容され 

 

 仏教(仏法)の 根幹をなすものとしての輪廻思想が定着した。 

 

 

 

そして、現代に通じる 誤まった仏法理解 生じるとなっている。

 

 

 


仏法は 霊魂を否定するのか?


  

霊魂というものに関する通常の考えは、 

 

それが どんな形をしているのか、あるいは 無形なものであるのか わからないにしても、 

 

 

とにかく 私たちの肉体とは別に、自己固有の存在をたもった 精神的実体であるという事であろうかと思う。

 

 


仏法は 霊魂 を否定し、

 

無我 を唱える


  

霊魂不滅説というのは、肉体は死滅することがあっても 霊魂永久に死滅することがなく、
  

肉体の死後は 肉体と別れて 己れ自身の存在を続け、 

 

さらに多くの場合、 なんらかの機会があれば 他の何れかの肉体に宿って、

 

その精神的主体として活動する との考えを持っているものと考えられる。 

 

 

 

しかし、こうした実体的な霊魂の存在、あるいは その不滅といった事は、 

 

仏法の根本思想である  

 

『無我』 の思想からすれば、当然 否定されるべきものである。

 

 


仏法 の 根本思想


 

 

三法印(さんぼういん) の最初の二法印は、

 

 

諸行無常(しょぎょうむじょう)

 

この世の ありとあらゆる存在と現象とが 常に生成死滅 変化をつづけている。 

 

  

諸法無我(しょほうむが)

 

 それぞれの存在や現象には、永遠に固定されたものはない ―――であるが、

 

 

霊魂といったような 

 

個人的精神の実体的な固然(こぜん=本来のままのすがた) とした存在 及び不滅といった事は

 

 この二法印によって検する時、 

  

仏法本来の思想とは 相容れないことは明らかである。 

 

 

 

 

仏法は、あらゆるものの 実体的存在を否定する。 

 

永久に自己の存在を維持する 常住なるものを認めない。

 

 

ものは不断に変化流転する。  

 

それが 無常の思想である。 

 

 


 

 

万法は、因縁所生法 

(いんねんしょしょうほう=因と縁との結合によって生じた仮のもの)であり、 

 

因縁尽きればに帰するのである。 

 

 

 

 

この無常無我の思想からすれば、常一主宰的な 実体的存在としての 霊魂の存在が 

 

否定されねばならぬ事 は明らかである。

 

 


         たた       おど

霊魂の祟りと脅かしはあるか?


仏様同士 が 喧嘩する


 

全国行脚中の昭和59年6月、青森市新町の松木屋デパート前で 下座行を行じていると

 

初老の婦人が、思い詰めた表情で 

 

「娘の嫁ぎ先の仏様を事情があって預かったところ、 お寺さんが、 仏様同士が喧嘩するから

 不幸になる‐‐‐‐  すぐに宗旨がえしなさい‐‐‐‐」 

 

といわれたけれど どうしたらよいかとの相談があった。

 

  

「もし喧嘩するとすれば、 それは  寺の坊主同士だ。 ご先祖様が 子供や孫に祟ることはない‐‐」 

 

と答えると、安心して帰って行かれました。

 

 


憑 依 霊 (ひょういれい)


  

昭和60年6月、下関の旅館にご厄介になった折、泊り客で30歳代の女性の自殺騒ぎがあり、

女将が相談にこられました。 

  

この女性は、霊界に関する本をかなり出版している霊能者から
先祖霊がとりついているといわれ 即金で20万円払い 除霊してもらったという。

 

ところが、 帰りしな霊能者に、

 

「貴女には、これからもさまざまな 霊魂が憑依(ひょうい)するおそれがある」

 

といわれて深く動揺して自殺をはかったという。 

 

 

彼女がすこし正気にかえったところで、 

 

「霊魂の祟りなどない‐‐‐‐いかがわしい霊能者の手に乗ってはならない」 

 

 と話しをして 心を落ち着かせました。

 

 


責 任 転 嫁


 

仏法本人の現世での 行為の善悪のみ問題となるのであって  

 

先祖の霊魂 子孫に憑依するという 考え方はなく、

 

また 他人の霊魂 祟り(たたり)や 障り(さわり)を生じるということもない。

 

 

 

憑依妄想―――

 

祟りや障りの幻想、被害妄想に陥るのは、

 

病気や不幸、失敗といった 自己の行為と原因冷静にみつめ 反省することなく、

 

責任を他に転嫁しようとする心理のはたらきにすぎない。 

 

 


先祖霊


 

先祖霊――――親は子のために、祖父は孫のために、善かれ 幸あれ と願いこそすれ、

                子孫に祟るなどということは絶対にない 

 

 

ただ、先祖や父母、祖父母の 御蔭を忘れ 感謝の念がない日々生き方不幸を呼ぶのである 

 

 


水子霊


 

 

水子霊――― 水子が霊となって実存し、それが 祟りや障りとなることはない。  

 

自ら生命の芽をつんだという 罪意識を本人がもちえても、 その水子の霊が 憑依するということはない。

 

 

 

先祖や水子を供養するのは、 その霊のもつ力を 畏れるからではない。 

 

 

あくまでも 自ら含めた生命の尊さを自覚し、 

 

自らの行為、 生き方を反省し、今、ここに 生かされ 生きている事に 感謝するからに他ならない。 

 

 

供養の行為をとおして、感謝の念を養い、今日只今を心豊かに 充実して生きることが大事であり、 

 

それが 先祖への供養、水子への供養となる。

 

 


繰り返しになるが

 

釈尊 霊魂の存在を否定し、無我を唱えた。 

 

  

霊魂の実存の真偽は、まったく人智の及ぶところではないのだから、

 

それを 詮索したり、有無を論議することは 野暮なことである。 

 

 

それよりも、

 

今、ここに 生かされて生きて存在する自己をいかに充実させて生きるか―――

 

それが 仏法の根本精神である。

 

 


 

 

釈尊は、『賢善一夜の偈』にあるように、 

 

無常観によって、現在刹那の経験 全力を傾けて最善を尽くすならば、

 

必ず 理想へ進むことができることを

 

 死を迎えようとする床の上で 下記のように説いている。

 

 


過去を追わざれ、未来を願わざれ、

過去はすでに捨てられ、未来はいまだ至らず。

ただ現在の法(ことがら)をその場その場に観察し、

動ずることなく、ゆらぐことなく、

そのことを知って、学ぶべきである。

今、まさになすべきことを熱心になせ。

だれが明日、死ぬことを知るであろう。

かの死神の大群と、戦わないということは決してない。

昼夜、つねに怠ることなく、熱心に、このように住めるもの、

このものをじつに一日賢きものといい、

静寂なるもの、智者(牟尼)と人は説く。

『賢善一夜の偈』

 

     

後編に続く(平成30年6月16日)


平成28年10月29日 

         自然宗佛國寺    開山  愚谷軒 黙雷   


自然宗佛國寺・開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年、下座行(路上坐禅)50年の体験から得たものを、連載でお伝えいたします。

 

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